2020/06/12公開

駅概要

宮浦駅の詳しい開設日は不明ですが、1891(明治24)年11月に三池炭鉱における本格的な運炭鉄道として七浦~横須浜(後の三池浜、以下同じ。)間が開通した時期に、宮浦駅も開設されたと考えられます。ちなみに、宮浦坑の開抗は1887(明治20)年2月であり、七浦~横須浜間に運炭鉄道が開通したときには既に宮浦坑は操業していますので、このことからも同区間の開通と同時に宮浦駅が開設されたと考えることができます。

1897(明治30)年2月には宮浦~旭町間(旭町支線)が開通し、宮浦駅は本線と旭町支線との分岐駅となりました。旭町支線の開通によって、三池炭鉱専用鉄道は九州鉄道(現・JR九州)と接続され、陸路でも石炭を日本各地で搬出できるようになりました。

また、三池炭鉱専用鉄道では1946(昭和21)年7月から1984(昭和58)年10月にかけて、三池炭鉱で働く炭鉱マンを集団社宅から坑口まで運ぶ従業員輸送(通勤列車)が運行されていましたが、初めて従業員輸送が実施されたのが宮浦~勝立(後の馬渡)間です。ホームは、現在の車庫がある場所の西側付近にありました。ホーム跡は2000年頃まで現存していましたが、三坑町3号踏切付近のフェンス設置により撤去されました(詳しい撤去時期は不明です)。

宮浦駅ホーム跡(1997年9月撮影)

1997(平成9)年3月の三池炭鉱閉山後、宮浦~旭町間は三井化学に引き継がれて同社大牟田工場への原料搬入を担っていましたが、2020(令和2)年5月7日をもって運行終了となりました。2020(令和2)年6月現在、宮浦駅およびその構内、車庫、ならびに電気機関車(9、11、12、18および19号機)についてはその後の活用方法が決定しておらず、現在は錆び取りや機器の固着防止のために宮浦駅構内で数日おきに電気機関車を走行させ、状態が維持されています。
1891(明治24)年11月から始まった三池炭鉱専用鉄道の歴史の上で、最後まで残った駅(残っている駅)が宮浦駅と言えるでしょう。

なお、現在の宮浦駅付近の地名にかつて「島の上」という地名があったようで、いくつかの文献や古い年表に「島の上」と記載されている場合は、この宮浦付近のことを指します。

沿革

1887(明治20)年2月宮浦坑開抗
1891(明治24)年11月七浦~横須浜(後の三池浜)間の開通と同時に宮浦駅開設?
1897(明治30)年2月宮浦~旭町間(旭町支線)が開通
1946(昭和21)年7月宮浦~勝立(後の馬渡)間の従業員輸送開始
1968(昭和43)年12月宮浦坑閉坑(同時期に従業員輸送も終了?)
1997(平成9)年4月宮浦~旭町間(旭町支線)が三井東圧(後の三井化学)に引き継がれる。
2020(令和2)年5月7日三井化学専用線の運行終了

1995(平成7)年11月の宮浦駅

以下の写真は、三池炭鉱閉山の1年半ほど前となる1995(平成7)年11月26日に撮影したものです。
今はなき、ホッパーやコンクリート製のホッパービンなどが写っています。

現在の状況

三井化学専用線の運行は2020(令和2)年5月7日に終了していますが、宮浦駅では現在も数日おきに構内の一部で錆び取り運転が実施され、走行できる状態が維持されています。宮浦駅およびその周辺の施設・設備における現在の状況は、以下のとおりです(2020(令和2)年6月12日現在)。

  • 駅全景
宮浦駅を東泉町2号踏切から望む。(2020/05/08撮影)
宮浦駅の駐車場から駅全体を見渡す。(2020/05/17撮影)
  • 東泉町2号踏切
    駅の北側に位置する踏切です。この踏切の警報器は「打鐘式警報器」といい、踏切の鳴動時は警報器の上に取り付けられたベルが内部で叩かれることによって音が出るという、日本でも数少ない警報器です。
    2020(令和2)年5月7日の運行終了以降、この踏切の宮浦駅側に設置してある門扉は閉ざされたままとなっています。
東泉町2号踏切から宮浦駅側を望む。運行終了以降は門扉が閉ざされたままである。(2020/05/23撮影)
東側から見た東泉町2号踏切。画面左側に宮浦駅があり、右側が旭町方面である。(2020/05/23撮影)
東泉町2号踏切の中央部から旭町方面を望む。画面中央の線路が旭町方面へ続く本線、その右側の線路が三井化学 大牟田工場への続く引き込み線。(2020/05/04撮影)
  • 宮浦駅事務所
    木造2階建ての宮浦駅事務所は、東泉町2号踏切と三坑町3号踏切のちょうど中間に位置しています。通常、宮浦駅事務所のすぐ脇に20トン級B形電気機関車が停泊しています。
宮浦駅事務所の南側。(2020/05/24撮影)
宮浦駅事務所の北側。(2020/05/13撮影)
駅事務所のすぐ脇に停泊する12号機。(2020/06/07撮影)
宮浦駅事務所前の車道。すぐ横を大牟田川が流れる。(2020/05/13撮影)
  • 車庫
    車庫は、三坑町3号踏切の脇に位置します。車庫内には2線あり、現在在籍する5両(9・11・12・18・19号機)全てを格納できます。
    車庫前の留置線には、部品取りとして3台の電気機関車(20号機(45トン級B-B形)、2号機(20トン級B形)、4号機(20トン級B形))が留置されています。いずれも、三池炭鉱で採掘された石炭を運んでいた機関車です。特に真ん中の2号機は、1911(明治44)年にドイツのシーメンス・シュッケルト社から輸入したものであるため歴史的価値の高い車両ですが、風雨に晒されているため、保存状態は良くありません(2020(令和2)年6月12日現在)。
    また、車庫の北側にも1線だけレールが敷設されており、無蓋車や無側車が留置されています。
車庫全景。手前に写る踏切が三坑町3号踏切。(2020/05/23撮影)
車庫前に留置される3両の電気機関車。(2020/05/06撮影)
車庫北側。(2020/05/19撮影)
車庫の北側には、数両の貨車が留置されている。(2020/05/23撮影)
  • 三坑町3号踏切
    宮浦駅の南側に位置する三坑町3号踏切は、電気機関車が車庫へ出入庫する際に通過する踏切です。2020(令和2)年5月7日以降では、実質的にこの踏切が三井化学専用線における唯一の現役踏切と言えます。
車庫側から見た三坑町3号踏切。(2020/05/14撮影)
通常、三坑町3号踏切の両端は門扉で閉ざされている。(2020/05/09撮影)
門扉が開かれた状態。(2020/05/14撮影)
車庫へ入庫するため三坑町3号踏切を通過する19号機。(2020/05/14撮影)
三坑町3号踏切の中央部から南側を望む。(2020/05/13撮影)
  • 貨車秤(はかり)線
    宮浦駅はかつて、宮浦坑で採掘された石炭を積み出すための駅でした。そのため宮浦駅には、貨車に積んだ石炭の重さを計るための貨車秤線が備え付けられています。貨車秤線は詰所と秤量器から構成され、今でも当時のまま残されています。
貨車秤線の秤量器と詰所を、北西側から撮影。(2020/04/19撮影)
貨車秤線の詰所を東側から撮影。手洗い場が歴史を感じさせる。(2020/04/19撮影)
  • 現存区間の終端(南端)
    車庫から300メートルほど南に行ったところに車道があり、その手前でレールには車輪止めが設置され、ここが現存区間の終端となっています。
終端地点から望遠レンズで車庫方面を望む。左に見える水色の貨車は、検重車。(2020/05/14撮影)
終端に設置してある車輪止め。(2020/05/14撮影)

宮浦石炭記念公園

宮浦坑は、1887(明治20)年の開抗から1968(昭和43)年の閉坑までに、約4,000万トンの石炭を出炭した三池炭鉱の主力坑でした。
現在、宮浦坑跡は宮浦石炭記念公園として整備されており、宮浦駅西側の小高い丘の上にあります。

園内には、煙突、大斜坑坑口、人車、プラットホーム、ならびに採炭機械等が良好な状態で保存・展示されています。
特に注目すべきは、園内に立つ煙突です。三池炭鉱の煙突で残存するものは、ここにある煙突だけとなっています。1888(明治21)年3月に完成したこの煙突は、宮浦第一立坑の巻上機を動かすためのボイラー排煙施設として建造されました。約13万8千枚もの耐火赤レンガを積み上げて建造された煙突の高さは31.2メートルにおよび、下から見上げるとその大きさが実感できます。なお、この煙突は、1998(平成10)年1月16日に国登録文化財(建造物)として登録されました。

宮浦石炭記念公園の入り口。(2020/05/23撮影)
巨大な煙突がシンボル的存在となっている。(2020/05/23撮影)
1924(大正13)年から1990(平成2)年まで使用された大斜坑跡。(2020/05/23撮影)
採炭機械の展示場。(2020/05/23撮影)
園内に設置してある説明板。操業時の線路の様子も分かる。(2020/05/23撮影)
第一立坑跡。(2020/05/27撮影)
煙突を下から見上げると、その大きさが実感できる。(2020/06/08撮影)

所在地

西鉄新栄町駅や、旭町バス停から宮浦駅までのアクセスについては、こちらもご参照ください。
三池の歩き方~宮浦編