2020/06/03改定

路線図-1951(昭和26)年

三井化学玉名専用鉄道の開通

1902(明治30)年、日本初の近代的な製鉄所として八幡製鉄所がつくられ、日本における鉄鋼生産の歴史が幕を開けました。製鉄は、石炭を蒸し焼きにして抽出した炭素の塊である「コークス」を燃料とするため、コークスの国内需要が高まりました。そこで、1912(明治45)年、三井鉱山はコークスを生産するためコッパース式コークス炉(後の第一骸炭工場)の操業を開始し、さらに、コークスの製造過程で発生したガスやコールタールなどの副産物を利用して様々な化学薬品の製造に着手しました。この副産物の一つであるアンスラセンは製品にできず焼却処分されていましたが、そのアンスラセンに着目した三井鉱山は、これを原料として合成染料を製造できないかと考えました。1915(大正4)年、試行錯誤の結果、アンスラセンを原料としたアリザリン(赤色染料)の製造に成功し、1918(大正7)年8月、三池染料工業所が誕生しました。

しかし、化学工業は軍需産業であるためその機密性が要求されるようになり、また、化学工業と鉱山業はその性質が異なることから、一つの会社で経営するには不都合な点が多くありました。そこで、1941(昭和16)年4月、三池染料工業所を三井鉱山から独立させ、三井化学工業株式会社(以下、「三井化学工業」という。)が設立されました。そして、翌1942(昭和17)年1月、三井化学工業は荒尾および玉名工場の建設に着手し、1944(昭和19)年に荒尾工場が操業を開始しました。これに合わせ、同年3月、三井化学玉名専用鉄道として原万田から玉名(後の大谷?)までの3.1キロメートルが開通し、その後、終点の平井までさらに東へ1.0キロメートル延伸しています。

従業員輸送の開始と勝立支線の再敷設

一方、1932(昭和7)年に撤去された勝立支線でしたが、第二次世界大戦に伴い勝立坑跡付近に火薬庫が設けられたことから、1944(昭和19)年、逆様川(本線からの分岐点)から勝立(後の馬渡)までが再敷設されました。

戦後になると、大牟田・荒尾には多くの社宅が建てられ、炭鉱マンとその家族が暮らすようになりました。そこで、1946(昭和21)年、宮浦~勝立間にて炭鉱マンの従業員輸送が開始され、それまで石炭や資材などの貨物輸送のみであった三池炭鉱鉄道は、小さな機関車が2両の客車を牽いて走る軽便鉄道のような光景となりました。
その後、従業員輸送は、1948(昭和23)年5月に西原~大谷間、同年11月に三池港~西原間、1949(昭和24)年2月に大谷~平井間、そして1951(昭和26)年9月に三池港~万田間と拡充されました。しかし、地方鉄道としての認可を得ていなかったため、一般旅客は乗車することができませんでした。

また、1950(昭和25)年2月には、勝立支線をさらに東へ延伸させ東谷停車場が設置されました。それと同時に、従来の勝立を馬渡に改称しました。

国鉄荒尾駅連絡線の敷設

1942(昭和17)年10月、太平洋戦争により、貨物の海上輸送を陸上輸送に転換する戦時陸運非常体制が敷かれ、11月中旬より「九州炭は関門トンネルを通じて陸上より関西に運ぶ」とされました。

これに対応するため、1943(昭和18)年10月、三池炭鉱専用鉄道の四山から国鉄鹿児島本線の荒尾駅へと通じる連絡線が敷設されました。戦後になり、1948(昭和23)年3月をもって国鉄荒尾駅連絡線はその使用が休止されています。