2020/05/10改定

三池炭鉱における鉄道輸送の夜明け

三池炭鉱における運搬鉄道としては、まだ三池炭鉱が官営であった1878(明治11)年2月15日、大浦坑~横須浜(大牟田川河口)間において軌間20インチ(約51センチメートル)の馬車軌道が完成したのが始まりです。当時の1日の出炭量は300トン程度でしたが、1884(明治17)年頃には1日の出炭量が700トン程度にまで増加してきたため、石炭の本格的な鉄道輸送が検討され始めました。

1889(明治22)年、官営三池炭鉱は三井組に払い下げられますが、1日の出炭量はすでに1,500トンに達しており、効率よく石炭を輸送するための鉄道を整備することが急務でした。
そこで、1890(明治23)年、七浦坑~横須浜間における鉄道敷設工事が着工され、翌年の1891(明治24)年1月に開通、同年11月より蒸気機関を動力とした鉄道輸送が開始されました。

蒸気機関車は、英国・シャープ スチュアート社製蒸気機関車1台(釜石鉱山局より移管)と米国・ボールドウィン社製蒸気機関車2台の計3台が導入され、それに加えて、100両の4トン石炭車が製造されました。

路線の延伸と三池港の開港

石炭の鉄道輸送が開始されてから3年後の1894(明治27)年、既に稼働していた大浦坑、七浦坑および宮浦坑に加えて、勝立坑が開鉱しました。それと同時に、鉄道路線も七浦坑~勝立坑間が開通し、その後も、宮原坑や万田坑の開鉱に合わせて延伸されました。

一方、鉄道によって横須浜(大牟田川河口)へと運ばれた石炭は、いったん小型船で口之津港(長崎県南島原市)へ移送され、そこから大型船に積み替えられて海外へと輸出されていました。これは、遠浅で干満差の大きい有明海には、大型船の来航が難しいためです。しかし、口之津港までの海路は約70キロメートルもあるため、小型船による航行には丸一日を要し、また、欠航に備えて口之津港にも貯炭場を設けるなど、とても非効率でした。

この問題をクリアするため、大型船が来航できる港を大牟田に築港することとなりました。1899(明治32)年、当時三井鉱山合名会社の専務理事であった團琢磨による築港適地の選定調査の結果、場所は四山沖が選定されました。「三池港」と命名された新港は、1905(明治38)年に着工され、同年10月には、万田まで開通していた鉄道路線が三池港まで延伸しました。この延伸によって横須浜から三池港に至る9.3キロメートルが開通し、三池炭鉱専用鉄道における本線としての最終的な規模がほぼ完成しました。

その後、三池港は1908(明治41)年3月に竣工し、同年4月に開港しました。三池港には、水位を一定に保つための閘門(こうもん)式ドックが備えられており、 最大6メートルもの干満差がある有明海でも大型船が来航できるようになりました。

蒸気から電気へ

三池炭鉱の採炭技術は急速に発達し、採炭に関わる設備が次々と機械化されていきました。それまで鶴嘴(つるはし)を使用していた採炭作業も、「コールカッター」と呼ばれる採炭機が導入されたことで採炭効率は飛躍的に向上し、1902(明治35)年には、官営引継ぎ当時の約2倍となる96万7,000トンを出炭しました。

三池炭鉱の近代化は鉄道にも及び、1909(明治42)年、三池炭鉱専用鉄道でも電化工事が始まりました。増備が続いた蒸気機関車も、1908(明治41)年に米国・ポーター社より輸入した3台が最後となり、以後は電気機関車の導入が進められました。本線用の電気機関車としてドイツ・シーメンス社より4台の電気機関車が輸入され、1911年(明治44)年12月より試運転が行われました(三池港の港湾荷役用としては、1909(明治42)年に米国・GE社製電気機関車8台が導入されています)。

そして、1912(大正元)年7月31日、万田~三池港間が電化開業し、運炭の効率も向上しました。日本初の幹線電化区間とされている碓氷線(横川~軽井沢間)が電化されたのも同年ですので、三池炭鉱専用鉄道には当時最先端の技術を投じていたことが窺えます。

その後、1916(大正5)年1月11日に七浦~万田間、1920(大正9)年10月に宮浦~七浦間と段階的に電化され、1932(昭和7)年7月29日の三池浜(横須浜)~宮浦間を電化をもって本線の電化が完了。さらに、1937(昭和12)年1月21日の銀水充填線の電化により、全線が電化されました。

地方鉄道としての活躍

三池炭鉱専用鉄道は、採掘された石炭や採炭に必要な資材等を運搬するために敷設されたものですが、そのほかにも、関連工場で使用する原料の搬入や製品の搬出にも利用されました。

1946(昭和21)年7月からは、石炭や資材のみならず、集団社宅から坑口までの従業員輸送としても活用されるようになりました。宮浦~勝立間にて始まった通勤列車は、三池港~万田間や1944(昭和19)年に開通した玉名線でも運行され、炭鉱マンの足としてその生活にかかせない存在となりました。しかし、地方鉄道として認可されていないため、一般旅客は乗車することができませんでした。

そのころ、三池炭鉱専用鉄道は三井鉱山株式会社(以下、『三井鉱山』という。)の三池港務所が所管していました。三池港務所とは、三池港や専用鉄道など、三池炭の海上輸送および陸上輸送を受け持っていた事業所です。時代が進むにつれ、三池港務所は石炭のみならず関連工場の製品等も広く取り扱うようになり、三井鉱山の一部門から公共性の高い事業へと発展していきました。そこで、三井鉱山は三池港務所を分離し、運輸専門の事業者として独立させることとしました。

この三池港務所の分離独立をきっかけに、1964(昭和39)年7月、三井鉱山は専用鉄道を地方鉄道に変更する認可を取得し、同年8月より「三池鉄道」として一般旅客輸送を開始しました。そして、1965(昭和40)年4月、三池鉄道は、三井鉱山から株式会社三井三池港務所(以下、『三井三池港務所』という。)へと引き継がれました。なお、当時の運賃は、三池港~万田/平井間が大人片道25円、宮浦~東谷間が大人片道15円でした。

三井三池港務所の貨物取扱量は年々増加し、三池港の港湾大型化の必要性が見込まれるようになりました。しかし、それには莫大な投資が必要です。そこで、三池港を公共移管するとともに、港湾の公共開発投資と増加する貨物の取り扱いに対応するため、1973(昭和48)年8月、三井三池港務所は三井鉱山に吸収合併され、新設された運輸事業部の傘下となりました。また、三井三池港務所における事業目的の一つであった三池鉄道は、三井三池港務所の吸収合併に伴い1973(昭和48)年7月31日をもって地方鉄道の営業が廃止され、鉄道線は再び三池炭鉱専用鉄道となりました。

閉山、そして廃線へ

1970(昭和45)年、三池炭鉱は過去最高となる657万tの出炭量を記録しました。しかし、「エネルギー革命」によってエネルギー資源は石炭から石油へと転換し、また、石炭を利用する業界においても安価な輸入炭にシフトしたことで、日本の石炭産業は衰退の一途をたどりました。日本各地の炭鉱が次々と閉山する中、なんとか操業を続けていた三池炭鉱も、1997(平成9)年3月30日、その歴史に幕を閉じました。

三池炭鉱の閉山によってその大きな使命を終えた三池炭鉱専用鉄道は、1997(平成9)年7月からレールの撤去や施設の解体が行われました。しかし、旭町支線(宮浦~仮屋川)の約1.8キロメートルについては、宮浦にある三井東圧化学株式会社(現・三井化学株式会社)が原材料の搬入のために活用することとなり、同区間は三井東圧化学専用線(1997(平成9)年10月からは、三井化学専用線)として存続することになりました。

三池炭鉱の閉山から23年が経った2020(令和2)年、北九州(黒崎)にある三菱ケミカル株式会社(以下、「三菱ケミカル」という。)から出荷される濃硝酸を三井化学株式会社 大牟田工場へ搬入する輸送を担っていた三井化学専用線は、三菱ケミカルによる濃硝酸の製造終了に伴いその役目を終えることとなり、2020(令和2)年5月7日をもって運行終了となりました。
それは、1878(明治11)年から刻まれた三池炭鉱専用鉄道の142年の歴史に、完全に幕を下ろした瞬間でもありました。

大正時代や昭和初期に製造された電気機関車の走る姿を見られなくなるのは寂しいですが、これも時代の流れです。しかし、万田坑・宮原坑付近の専用鉄道敷跡は世界文化遺産の一部となっており、三池炭鉱専用鉄道の存在は今後も語り継がれていくことでしょう。